こんばんは。
高崎に残されてきた、EF60 19号機が回送準備との話題が巡っているようです。
30年ほど前、某イベント列車として北海道から九州
そして船積みで沖縄へも足跡を残したという同機、その後結果的に本線上に
唯一健在のEF60ということで、今日まで大切にされてきたものと思います。
前述のような華やかな経歴は抜きとしても、高度成長期の下支えとしてひたすら西へ東へと
奔走した貨物列車の先頭に立った、一般色の直流機の一員であり
数少ない生き残りとして動態でなくとも、近代遺産として何らかの形で残すべき方向が
出来ればと、勝手ながらに思いますが・・・。
画像は1982(昭和57)年、私は四国へ行く途上に大阪から117系の新快速で
降り立った姫路駅。ここから岡山方面への普通列車に乗り継ぐ合間でした。
反対側のホームに停車していたのは、EF60の79号機です。
普段は貨物列車を牽いているであろう同機が、この時に牽いていたのは
ご覧のとおりの特急寝台客車に救援車??に、後方には冷蔵車も見える貨車群。
”究極の混合列車”とでも言いたくなる雰囲気ですが、場所からして
当時存在した、国鉄高砂工場からの出場試運転であったと思われます。
いまなら色々と、入出場の情報も出ることでしょうが
(私自身は昔もいまも情報弱者ですが)この時は偶然に目にすることが出来たことで
得した気分になったものでした。全く1人ではなかったと思いますが、少なくとも
カメラの”放列”ということはなかったはずです。EF60ではなく、EF61だったらもう少し
注目されていたのかも知れませんが・・・。
尚、画像の79号機は1986(昭和61)年の3月に廃車になったようで
新製からの22年間、東海道・山陽の二大幹線でひたすら黙々と働いた
生涯であったようです。
高崎に残されてきた、EF60 19号機が回送準備との話題が巡っているようです。
30年ほど前、某イベント列車として北海道から九州
そして船積みで沖縄へも足跡を残したという同機、その後結果的に本線上に
唯一健在のEF60ということで、今日まで大切にされてきたものと思います。
前述のような華やかな経歴は抜きとしても、高度成長期の下支えとしてひたすら西へ東へと
奔走した貨物列車の先頭に立った、一般色の直流機の一員であり
数少ない生き残りとして動態でなくとも、近代遺産として何らかの形で残すべき方向が
出来ればと、勝手ながらに思いますが・・・。
画像は1982(昭和57)年、私は四国へ行く途上に大阪から117系の新快速で
降り立った姫路駅。ここから岡山方面への普通列車に乗り継ぐ合間でした。
反対側のホームに停車していたのは、EF60の79号機です。
普段は貨物列車を牽いているであろう同機が、この時に牽いていたのは
ご覧のとおりの特急寝台客車に救援車??に、後方には冷蔵車も見える貨車群。
”究極の混合列車”とでも言いたくなる雰囲気ですが、場所からして
当時存在した、国鉄高砂工場からの出場試運転であったと思われます。
いまなら色々と、入出場の情報も出ることでしょうが
(私自身は昔もいまも情報弱者ですが)この時は偶然に目にすることが出来たことで
得した気分になったものでした。全く1人ではなかったと思いますが、少なくとも
カメラの”放列”ということはなかったはずです。EF60ではなく、EF61だったらもう少し
注目されていたのかも知れませんが・・・。
尚、画像の79号機は1986(昭和61)年の3月に廃車になったようで
新製からの22年間、東海道・山陽の二大幹線でひたすら黙々と働いた
生涯であったようです。