1980年代
7月14
こんばんは。
昨日は、阪急2200系を記事にしましたが
「2200」の形式、関東では小田急カルダン車の嚆矢である
デハ2200形がありました。
湘南フェイスが流行していた時期だったからか、流線型ではないものの
2枚窓の表情でしたが、ややユーモラスな表情に見えます。
1984(昭和59)年の引退後、譲渡されずに自社に残されたトップナンバー2両編成が
長く保存されてきましたが、新設のミュージアム建設に伴い
先般1両(デハ2202)が解体されてしまったのは、記憶に新しいところでしょうか。
富士急に譲渡された車両でも、山梨県内で保存されている車両があると聞きます。
画像は、多摩線運用に就く2200形電車。この時は1800形電車の
さよなら運転で訪問したついで、みたいな感じで撮ったものですが・・・
ちょうど38年前の今頃です。
画像に汚れがなどあって、お見苦しいですがご容赦下さい。
小田急永山に到着する、2214他4連。
当時、多摩線終着駅だった小田急多摩センターにて。
1981(昭和56)年7月
昨日は、阪急2200系を記事にしましたが
「2200」の形式、関東では小田急カルダン車の嚆矢である
デハ2200形がありました。
湘南フェイスが流行していた時期だったからか、流線型ではないものの
2枚窓の表情でしたが、ややユーモラスな表情に見えます。
1984(昭和59)年の引退後、譲渡されずに自社に残されたトップナンバー2両編成が
長く保存されてきましたが、新設のミュージアム建設に伴い
先般1両(デハ2202)が解体されてしまったのは、記憶に新しいところでしょうか。
富士急に譲渡された車両でも、山梨県内で保存されている車両があると聞きます。
画像は、多摩線運用に就く2200形電車。この時は1800形電車の
さよなら運転で訪問したついで、みたいな感じで撮ったものですが・・・
ちょうど38年前の今頃です。
画像に汚れがなどあって、お見苦しいですがご容赦下さい。
小田急永山に到着する、2214他4連。
当時、多摩線終着駅だった小田急多摩センターにて。
1981(昭和56)年7月
最近、「ゆうマニ」が北海道での使用前提で東急に譲渡されたり、或いは長年
高崎に残っていた車両が廃車回送されたりと、何かと”話題”となっているマニ50形。
50系客車の一員として誕生しつつ、本来の荷物車としての役割は
10年にも満たずに国鉄解体と共に多くは短命で姿を消しました。
いわば悲運の車両とも言えそうですが、JRに継承されつつも急速に姿を消した
旅客用50系と異なり、事業用として残ったマニは数はへらしたでしょうが
”しぶとく”今日まで生きながらえてきた、といえるでしょうか。
国鉄時代末期、新形荷物車として”現役”だった頃の画像より。
山陰本線・DD51牽引の普通列車の最後部に連結されたマニ50形。
1両前は、”同僚”のスユニ50形と思われます。
画像が一部劣化しておりますが、ご容赦下さい。
出雲市 1982(昭和57)年3月
大阪駅に停車中の荷物列車。牽引機EF58 128号機の次位にマニ50。
上記列車の手前のホームに入線してきた、117系電車を撮ったものですが
上記マニ50の車番が読めました(マニ50 2158)。同車はJR東日本に継承
「MOTOトレイン」としても使用された後、廃車となったそうです。
大阪 1982(昭和57)年1月
高崎に残っていた車両が廃車回送されたりと、何かと”話題”となっているマニ50形。
50系客車の一員として誕生しつつ、本来の荷物車としての役割は
10年にも満たずに国鉄解体と共に多くは短命で姿を消しました。
いわば悲運の車両とも言えそうですが、JRに継承されつつも急速に姿を消した
旅客用50系と異なり、事業用として残ったマニは数はへらしたでしょうが
”しぶとく”今日まで生きながらえてきた、といえるでしょうか。
国鉄時代末期、新形荷物車として”現役”だった頃の画像より。
山陰本線・DD51牽引の普通列車の最後部に連結されたマニ50形。
1両前は、”同僚”のスユニ50形と思われます。
画像が一部劣化しておりますが、ご容赦下さい。
出雲市 1982(昭和57)年3月
大阪駅に停車中の荷物列車。牽引機EF58 128号機の次位にマニ50。
上記列車の手前のホームに入線してきた、117系電車を撮ったものですが
上記マニ50の車番が読めました(マニ50 2158)。同車はJR東日本に継承
「MOTOトレイン」としても使用された後、廃車となったそうです。
大阪 1982(昭和57)年1月
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